〜時には短編でも(2)〜
■ある定年■
| その日、妻は両手に抱えきれないほどの花束を持って帰宅した。 年度末には中学校教師としての定年を迎えるのだが、その直前の、つまりはそれが最後の卒業式であり、そこからの帰りだったのである。 卒業式に花束を持って帰るのは例年のことだ。 式を終え、“学校の近くにある公園に、別れを惜しんで集まってくる卒業生たちが持ってくるのよ”ということを夫はその都度聞かされていた。 今年、その量がいつもより多めに感じられたのは、“女房の定年を子ども達も気遣ってくれてのことか”と夫は思った。
妻は一人っ子で、教師稼業の傍ら子どもを二人産み、育てた。 夫は、一つの勤め先が長続きせず、何度か変えては、子供達の養育費程度の給料は入れていたけれど、それ以上でも以下でもなく、常に不安定さを抱えていた。しかも、どの会社に移っても、夜の帰りは、一時期ある種の亭主族がそうであったように、酒を飲み歩いていて遅くなる。勢い、家計収入的に、また子どもとの接触頻度においても、妻にかかる負担にはかなりのものがあった。 二人目が生まれる時に、妻の両親をいなかから呼び寄せ、同居することになった。この件では、妻よりもむしろ夫の方が積極的だったのは、そうして妻に何もかもを押し付けている状態に負い目を感じていたのが、そのことで妻の負担が軽減され、負い目も多少は緩和されるかもしれないといった打算に基づいていたことを夫は自覚していた。 両親との同居で、妻が教師業に専念できるようになったのはたしかだった。とりわけ、一人目の時に苦労した保育所への送迎はもはや必要なくなり、さらには家事からも解放された。だから、そこからの20年近くが妻にとっては、最も仕事に集中できた時期だったと言える。 意欲的にクラス担任をこなし、中学3年生の進路指導には、その時期になると毎晩遅くまでデータ、資料とにらめっこをし、生徒個々人の能力を見定めて万全を期した。また、身体を自由に動かすことのできない重度の身障者生徒の対応では、ある時期の3年間、その子の生死の境を常に意識して緊張の日々が続いた。そして妻は、何よりも不登校の子ども達や、ワルといわれる所謂問題児たちに人気があった。 それらは総て妻の、生来の正義感と、自己犠牲をもってしてでも人の喜ぶ顔が見たいという旺盛な奉仕の精神みたいなものとがあって、それに拠ってきたっていたものに違いなかった。 妻に暗雲が押し寄せるのは50歳を過ぎた頃からである。
すでに子供達は結婚などで自立するまでに成長していたし、夫も曲がりなりにもフリーとなり、家で仕事をする機会が多くなっていたから、その分、家のことに関する限り、妻の精神的平穏さは少しばかり保たれるようになっていた。 “あと10年、さあこれから教師業の仕上げにラストスパートだ”。そう妻が思ったとしてもごく自然な成り行きであった。 ところが、それは突然に押し寄せてきた。 母親に認知症の兆しが現れ始めたのである。 妻はまた、ある意味、負けず嫌いの完璧主義者でもあった。それ故に当初、この、やはり小学校の教師をしていて厳格だった母親の認知症という事態になかなか馴染めず、容易には受け入れることができずにいた。しかし症状が徐々に進行していくに従い、無理にでも呑み込まざるを得なくなってくる。すると今度はより完璧な介護をしようという方向に気持ちが傾いていったのであった。
3年後、母親の状態が、教師稼業との両立はもはや不可能といったところまで危機極まって、妻は母親を24時間介護の施設に託すことを決意するのである。それはいわば在宅介護の挫折であり、“介護の放棄”である。いずれにせよ完璧主義者の妻にとっては少なからず勇気の要る、苦渋の決断であったことは間違いなかった。 この選択にはしかし、誰もが責めることはできなかった。家人は、妻が教師と介護の両方をこなすことで限界状況にまで立ち至った経過を具にみてきていたのであり、かつ介護への一般的な認識はすでに、専門のスタッフに診てもらうのがベストというレベルに到達しつつあったし、かてて加えて、“私はこれまで何一つとして最後まで続いたことがない、だから、教師だけは退職までやり遂げてみたい”という妻の本音に、とりわけ夫は、己とは全く反対の立ち位置ではあったが、深く共感していたからでもあった。 それからというもの、母親の、施設の環境にそれなりに馴染み、土曜日ごとの訪問では元気な姿を確認できるということもあってか、妻の表情は一時期からすると、大分ゆとりが感じられるようになっていた。 それに伴い、残り僅かな教師稼業に専念する時間も増えていった。
そんなところに今度は父親である。 母親の入所1年後、父親に、軽度の認知症に加え、幻覚の症状が出始めたのであった。爾来、父親は所謂“まだらぼけ”状態が続き、しかし確実に症状は進んで、発症から1年後の夏には、十分な歩行さえ覚束なくなっていた。 妻は、“父親もまた介護施設に送り届けなければいかないのか”という判断を迫られた。しかしながら、“最後に、この夏休みの1カ月間だけ様子をみてみよう”と、望みを繋ぐべく、ひと夏、祈るような気持ちを携えて日夜父に付き添うという行為に及ぶのである。 が、ついに好転の兆しは見えてこなかった。9月、父親も入所させざるを得ないという結論に至る。 だがこの時、ある意味、父の容態に十分に得心した妻には、慣れも手助けしたのかもしれない、母親の時に感じたほどの大きなショックはなくなっていた。 気が付けば、あと2年で定年という時期だった。
卒業式の前夜、妻は卒業生一人一人に贈るコメントを書き綴っている。夫の身勝手さと、二人の子どもの子育てと、そして最後には両親の予期だにせぬ発症と、そうしたことにも逃げず正面から対峙しながら、そうして教師業を続けた38年間の、それは紛れもなく集大成として紡がれることばであるに違いなかった。例えそれが、これまで妻が送り出した卒業生の仮に何十分か、あるいは何百分の1かの生徒達の数であったにせよ、である。 父を施設に送った後、やや安堵感が増したせいか、ここ1年は、いよいよ教師人生の最終コーナーに差し掛かったということでの本人の頑張りも空しく、若かりし頃には決してみられなかった、夜早々に炬燵で横になってしまうことや、はたまた物忘れの頻度が多くなったことなどなどが、妻の気分を随分滅入らせていたのだったが、これを書き出したここ3日間は、夜が冴えた。 そして卒業式を明日に控えた夜は4日目。すでに深夜になるというのに、珍しく持ちこたえていた。それどころか、「百数十人の一人一人のことがはっきり分かるよ」と言ってはペンを走らせている妻の表情に、夫は充実感を通り過ぎた愉悦感さえ見て取ったのである。
両手いっぱいに持ち帰った花束を、妻は玄関と応接間と居間の3箇所に分けて生けた。 帰るとすぐに、“疲れたわ”とひとこと夫に告げて風呂に入り、それから夫と2人だけの食事を終えた後の段取りだった。 生け終えて、居間の炬燵に入る。 炬燵では、それが習慣になっている食後のウイスキーのグラスを傾けながら、夫が9時のテレビのニュースを見ていた。 「あんまり多くないんだけど、退職金の一部はかつての教え子の行っている銀行に入れることにしたの。あの子、もう48ぐらいになるんだけれど、喜んでくれるかな?」 妻が、いつもの生徒の話題を持ち出す調子で夫に言う。 夫は、瞬間、それを理解するのに時間がかかったが、この唐突さはいつものことだった。やや間をおいて、「それは喜ぶだろう」と、テレビから目を離さずに答えた。 しばらくして妻は、“私も飲もう”と独りごち、ウイスキーを湯で割ったグラスを運んでくると、今度は黙って、今日持ち帰った卒業アルバムに目を通し出すのであった。 メガネをかけて熱心に見入る。 夫は、テレビから目を逸らし、そんな妻を改めて脇から眺めた。そして卒業アルバムを括っている妻の手に目が止まったのである。 手は、往年の、ふっくらしゃっきりとした福やかさがすっかり褪せていた。それどころか、艶もなく、乾き切ったような皺が目立ち、そのうちの何本かが甲の部分をがっちりと押さえ込んでいる。 夫は、不意を衝かれたごとく、ひたすら目を吸い寄せられていた。 “これが年輪というやつか。他ならぬ、俺の、子どもの、両親の、そして無数の教え子達の、全部の存在を、全力で、全精力を傾けて支えてきたはずなのに、それが挙げ句の果ての残り滓みたいで、これがその証でいいのか?” 夫の気配に気付いた妻は、だが、「ひどい手でしょ、今頃気付いたの?」と言って、何ら意に介した風もなくさらにアルバムの頁をめくっていくのであった。 「再任用っていうのがあるの。給料は安くなるけど、あと2〜3年やってみる。」 アルバムを閉じて、妻は夫に言った。 視線を、なおも妻の手の移動に合わせながら、夫は、その妻の声を遠くで聞いていた。 |